松籟
  昭和54年松山額縁店の創業55周年を記念し、2代松山雄策氏が松山額縁店の歴史、初代松山清十郎氏の一生、当社に関わって頂きました方々に寄稿して頂いて製作した記念誌(198ページ)です。その中に坂本直行先生にも寄稿して頂きました。

松山清十郎さんと私
画家 歩々の会代表 道文化省受賞 
坂本直行

  私もある程度長生きしたおかげで、札幌市から、バスや地下鉄や動物園のパスをいただいて利用しているが、孫を連れて動物園だけは、恐ろしくて、まだ見物に行ったことがない。でも松山さんに年を尋ねたら、私とはひとまわりお違うのだから驚いているわけだが、私と松山さんの出会いは、尊敬する繁野さんにはとても及ばないが、少なくともその次ぐらいに座れると思っている。
 松山額縁店は今年で創業五十五年と聞いているが、同店の第一号の店は、南四条西九丁目で、この店で額縁を買った絵かきさんはというと、恐らく繁野さんぐらいだろうと思う。その後、狸小路一丁目の勧工場(面白い名称だ)に移転した店は、私も良く知っている。これは昭和三年と聞く。だが昭和元年か、大正十四年に道展に油絵を二点出したうち、一点が入選したのだが、その時の二点の額縁は、記憶にないが、ひょっとすると南四条の店でかったのかもしれないと思ってもいる。私はこの後現在まで一度も公募展に出品したことはないが、これは私のヘソ曲がりのせいである。
 ところで、狸小路の勧工場の松山さんの額縁店は間口は二間もあったろうか、まことに小さな店で、当時大流行の映画俳優のブロマイドを手に入れた小さな額などがいっぱいに並んだ店で、まことに勧工場の名にふさわしい店であった。私がこの店をよく訪れたのは昭和四年の春以後の事であるが、好きで描いていた小さな絵を入れる額縁を求めに訪れた。当時の狸小路は、まことに庶民の愛すべき街並みであったが、私に用のあったのは、松山さんの店と三丁目か四丁目にあった、一個二銭の今川焼というおやき屋に、山登りの帰りに立ち寄るぐらいだった。しかし松山さんへ立ち寄った帰りには、今川焼を食いにしばしば立寄ったので、この二つの店は、今となれば切り離すことができない想い出でもある。
 私は昭和五年の秋に、広尾町の紋別原野にリュックをかついで出かけて、そのまま昭和四十年まで、日高山脈と原野の風物ばかりを描いて過ごした。といっても開拓生活だから、絵なんか描くどころでなかったが、細ぼそとデッサンぐらいで我慢していたわけである。私の友人で北大農学部の事務官に日野君とうのがいたが、この友人も絵を描いていて、「なんとかして二人展をやらないか」といわれて、当時札幌に開店してそう年もたたぬ三越支店の催し場を借りて二人展を開いたことがあった。これはよく覚えていないが、昭和七年、八年頃だったと思う。むろん二号から三号前後の水彩画が主で、少数の油絵もあったように記憶する。
 この時の額縁は、むろん勧工場の松山製の額縁で、価格は一枚六〇銭という記憶があるが、これに絵を入れて一点二、三円で売ったが、格安のせいで全部売れてしまい、私は貧乏生活の最中だったから、ホクホクものだった。出品点数は三十点ぐらいだったろうか。この時は私に金なんかあるわけもないから、額縁全部は借金で、絵が売れたら払うということであったが、今考えてみるとずいぶん遠慮のない横着なやり方で、もし売れなかったらなんていうことは、あまり気にもしなかったのだろうが、私の二十七、八才の頃のことである。これが私の松山さんご夫妻にお世話になった始まりで、それ以来今日までお世話になり通しで、三十年間一度も現金で米を買ったことがなかった貧乏百姓に手を上げて、絵かきに化けてから二十年たった今日まで、松山さんにはお世話になり通しできてしまった。
 こういう長いおつき合いというのは、松山さんご夫妻の、職人気質に徹した仕事ぶりと親切さが、私に他の店で額縁を買う気持ちを、自然に全く起こさせないためであった。松山さんのように、金も払わぬ客に、「いつでもよろしい、都合ついた時にお払い下さい」と、品物を渡す商売人というのは、私は聞いたことがない。こんなことで松山さんに足を向けられない絵かきは無数にいたと思われる。
 松山さんの親切を思えば、不払いは一度もやった事はないが、松山さんへは足を向けて寝られない程お世話になってきた一人である。だが、私にはもうひとつの苦労があった。松山さんの精いっぱい入念に作った額に、描いた絵を入れると、絵が額に食われて貧相に見えることであった。これは私にとっては実に耐えられない苦しさで、いつになったら逆に額を食う絵を描けるようになるだろうか、あるいは食うまでとはいかなくても、額と調和してあまり見劣りがしない絵をかけるようになるだろうか、私の苦労はいつ解決されるだろうことかと、実に心細い限りのプロの絵かきであったわけである。
 だがある時、松山さんの口から、「そういっちゃなんだけれども、この頃は坂本さんの絵も、時どき額縁を食う絵もできるようになったね」といって、松山さん自身も嬉しそうに笑われた時のことは、私には忘れられない思い出である。こんなことを思うと、絵を習ったことがない私にとっては、いつも私の尻をたたいて、「おい、もっとしっかりしていい絵を描け」という松山さの発散する温かい励ましの心が、いつも私はじかに肌に感じて、今日までどうやら心細い足どり乍ら歩んで来られたわけで、これはなんとも有難いことである。
 昭和十八年のことだったが、たまたま原野から札幌に出てきて勧工場に行った時、ちょうど帝国館という映画館の前の角に、立派な松山額縁店が出現していて、私をうれしがらせたり驚かされたりした。しかしそれもつかの間で、敗戦の色が濃くなり、都市の爆撃が烈しくなるに及んで、この店は忽然と姿を消して私をがっかりさせた。これはケンカや戦争なんか大嫌いな松山さんの、郷里である岐阜への疎開である事が直感されて、私はやりきれない淋しさを覚えた。
 敗戦前後の開拓者は、強制供出(食料や飼料)や強権発動などでおびやかされ、食料を強奪された、死にもの狂いの生活がしばらく続いたので、絵どころの騒ぎでなく、そういう空白の時間がかなり長かった。特に十五年間も私は農民解放運動の片棒をかついで走り廻っていたので、絵の事なんかどこかへ置き忘れていたが、そんなことでしばしば農民大会などで、札幌に出る機会があったから、松山さんが再び狸小路に戻ってこられた消息だけは知っていた。これは私には大変うれしい事であった。この松山さんの戦後の開店は昭和二十八年と聞いている。
 ただでも借金がふくらむ貧乏百姓は、長年農民運動で私のかまどは全くつぶれてしまい、これ以上は首つりか蒸発かというドタン場に立たされるに及んだ。私の生きる血路は、絵かきになる以外にないだろうと決心して、私は突然、牛と馬を売り払ってしまった。だが借金の極く一部が軽くなったに過ぎなかった。
 百姓が絵かきに化けることは簡単ではない。私は百姓仕事が終わる夜の九時か十時頃から、ランプの下で絵を描き始め、毎晩一時二時までの仕事だから寝る時間は全く奪われてしまった。こんな生活が三年続いた。そんな事で、私と松山さんとのおつき合いは再び活シ發になり、これからはもう私が死ぬまでは、松山額縁店のお世話になる運命は定着してしまった。
 もう二十年前にもなるだろうが、東京や仙台の個展の時には、わざわざ出張されて、絵の荷ほどきや、硝子拭きまで手伝ってもらい、全く感謝の言葉もないのである。
 さて、松山さんの店も大きく成長して、三人の息子さんたちが立派に協力して、北海道の、否、日本の松山額縁店にまで発展したのは、松山さんの仕事熱心の当然の結果ながら、万人のなし得るところではない。安心して息子さんたちにバトンを渡された松山さんは、突然絵を描き始めるに及んで、驚いたのは私一人ではない。札幌の絵かきは皆その絵のうまさには舌を巻いた。その作品の構図といい、色彩といい、どうみても長年絵筆をとった人の作品としか思えないからであった。  昭和二十八年に再び札幌に開店した後のことだが、狭い狸小路の仲通りの工場を訪れた時、私には応接間だか額置場だかわからないような部屋に、クレヨンで描いた柿の絵があった。それが実にすばらしい絵であったので、「これは誰の作品ですか」と尋ねたら、松山さんはニヤニヤと笑いながら「私の作品第一号だよ」といわれたのを聞いて、私は全くはずかしい思いがした。私はガンと一発頭をなぐられたような気がして、自分の絵の貧しさにガッカリしたが、松山さんは何万枚も他人の絵を眺めてきているので、描かなくても頭の中に、ちゃんと絵が出来上がっていて、手を動かせば、自然に絵が画かれてくるのだろうと思った。
 松山さんは、何年か前に、パークホテルのロビーで最初の個展を開かれた時、私にガンと一発喰わせた柿の絵が並んでいた。私は妻と一緒に「あの柿の絵をなんとか買わせてください」とお願いしたら「坂本さんなら喜んでお渡しします」という事で、松山さんの作品第一号の柿の絵は私の家の壁に掛けられてあるが、その作品はいつも私の仕事のはげにになり、我が家の宝物のひとつでもある。
 松山さんのその後の作品は、みな松山さんの人間味溢れる温情と、多くの人がとうの昔に捨て去っている童心を、確実にカンバスに再現しているのは、全く敬服すべきことで、画面からほのぼのとした暖かさを感ずるのは松山さんご夫妻の人格の現れで、商売はかくあるべしの貴重さを無言のうちに教えている。それは具体的にいうと協力の貴重さである。札幌の個展の時、いつもそのまぎわまでバタバタと忙しいのは毎度のことながら、外にトラックが待っているのに、松山さんの奥さんが絵を入れる額の硝子拭きを手伝って下さった時、悠々迫らず、急ぐ風は全くなく、硝子に「ハアハア」と息を吹きかけては拭いているのを見て、私は「これだ!!」と思ったことがある。いわばこの松山調は、まことに貴い私への教えでもあった。それはまた、仕事と人間関係を大切にする松山さんご夫妻の教えでもある。
 松山さんご夫妻に関することは無限にあるが、これ以上紙数を増やすのは、遠慮すべきであるのでペンを置くが、私の波乱に満ちた人生の最後の旅は、いつも松山さんが私の後から舵をとって下さっているような気がして心強いばかりでなく、よき私の師として、私の仕事を見守って下さっておられることは、私な大きな幸せでもある。
 また、最後に私のいいたい事は、内地から個展を開くために来道する絵かきは無数にあるし、北海道の絵かきの大半は松山さんの温情にふれない人はないと思うが、このかくれた松山さんの功績は、日本の絵かきを育て上げた意味ではまことに偉大であって、まさに文化賞あるいはそれ以上と考えても当然であると思っている。幸いそんな機会に恵まれたことを心から願って止まない。
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